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ヨガ

ヨガ

自分がヨガから連想するものは、修行や精神修養・・・。とても憧れているグルは、あるヨギの自叙伝を書いた、パラマハンサ・ヨガナンダ氏。でも、その伝承のクリアヨガとかを実践しているわけではありませんし、今生はそのような霊的修行の人生を選択したわけではないみたいです。

でも、どこが酵素と関係しているかといえば、やはりデトックスでしょう。アーユルベーダなどには、パンチャカルマなどの実践的なデトックス法が記されていますので、実際に好奇心旺盛な自分は、ゴマ油を1瓶たっぷりと天頂のサハスラーサから注ぎ込み、ベトベトになりながら1人パンチャカルマを楽しんでいました。

当然のごとく、タオルにしみ込んだゴマ油がいつまでも落ちず、酸化して嫌なニオイを発し続けたのは言うまでもありません。

ヨガに最適な食べもの

瞑想などをされる事が多いのでしたら、やはりサトワ(浄性)の食べ物が必要となります。食と波動でも書きましたが、食べ物には情報とエネルギーがインプットされています。つまり、その食べ物の履歴がそれを食べた人に影響するということです。

そう考えると、ヨガの本質である、自己統制により在るべき自分に還るという道を歩む中での食べ物として、酵素は最適であると思います。

食の原点にも書きましたが、人間は食べ物の化身です。何を食べたかにより、その人がどう変容するかが決まるのです。

好きだから、美味しいからで食べ物を選ぶのではなく、その食べ物の本質をよく見定めてから、食べ物を考えるべきなのだろうと思います。

Om Shanti!

「あるヨギの自叙伝」からの抜粋

「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著より

ヒンズーの聖典によれば、人間がこの地球上に何度も生まれ変わって来る目的は、その幾生涯の経験を通じて、霊のもつ無限の性質を物質的条件のもとでできるだけ豊かに表現し、かつ、物質に対する霊の支配力をより完全に現わすための方法を学ぶためである。

東洋と西洋は、これをそれぞれ異なった方法で学んでいるのであって、その発見したものを互いに分かち合わなければならない。神は、その子らである人間が、貧困と病苦と霊的無知を追放した新しい地球文明を築く努力をすることを明らかに望んでおられる。そしてこの霊的無知、人間が自己の神性を忘れて天与の自由意志を誤用していることこそ、いっさいの苦悩の原因なのである。

世の中の害悪は、われわれが単にそれを社会的問題として考えている間は、抽象的な感覚で片づけられてしまう。しかし、もっと現実的に取り組むためには、各個人が自分自身の問題として考える必要がある。理想郷は、社会の美徳として花開く前に、まず個人の胸の中につくられなければならない。すなわち、内面的改革が自然に外面的改革をもたらすのである。

自分自身を改革することが、周囲の何千人という人々を改革することになるのである。時の試練に耐えてきた世界の聖典は、いずれもその本質においては一つであって、人々に霊感を与えて魂の進化をうながす力をもっている。

私はキリストに、彼の言葉の真の意味、(その多くは、過去二十世紀の間あまりにも大きく誤解されてきたが)を正しく把握することができるよう熱心に祈った。ある晩、私が静かに祈っていると、エンシニタスの僧庵の私の居間が乳青色の光に満たされ、目の前に主イエスが輝かしいみ姿を現わされた。主は、まばらなあごひげと口ひげを生やした二十五歳くらいの青年に見えた。

真ん中で分けた黒く長い髪は、きらめく金色の後光に包まれていた。彼の目は深く神秘的で、私がじっと見つめていると、無限に変化した。そして、目の表情の変化とともに伝わって来る英知を、私は直感的に把握することができた。私はまた、彼の輝くまなざしの中に、もろもろの世界をささえている力を感じた。

聖杯が彼の口もとに現われて、それが私の口まで降りて来た。そして、再び彼の方へ戻って行った。しばらくしてから、主は美しい声で、私のある個人的なことがらについて語ってくれた。私はそれをひとり自分の胸に秘めている。一九五〇年から一九五一年にかけて、私は、カリフォルニア州のモハベ砂漠の近くにあるSRFの静修所に多く滞在した。そこで私は、バガヴァヅド・ギーターを翻訳し、いろいろなヨガの道についての注解を書いた。

このインドの最も偉大な聖典は、あるヨガの技法について二度にわたって言及し、道徳上の教訓とともにその具体的な方法をも示している(これは、パガヴァッド・ギーターの中に記されている唯一のヨガの技法で、ババジがクリヤ・ヨガと名付けられたものと同一のものである)。

われわれが住んでいるこの世界は、夢と同じく意識がつくり出した幻影にすぎないが、この夢の世界を海にたとえれば、呼吸は、この海に、個別的意識(もろもろの事物をそれぞれ個々別々の存在と錯覚する意識)の波を巻き起こす幻惑の嵐である。

人間は、この呼吸によって自分自身をも個別的存在であると誤認し、そのために多くの苦悩を背負っているが、この迷夢から目覚めるためには、単なる哲学的あるいは倫理的知識だけでは不十分である。そこで主クリシュナは、肉体を自己の完全な制御下に置き、さらにそれを意志の力によって純粋なエネルギーに変換させる、この聖なる技法を教えられたのである。この驚嘆すべきヨガのわざは、科学的にみても、決して原子力時代を開いた現代の科学者たちの理論と矛盾するものではない。すべての物質がエネルギーに還元できることは、すでに証明されているところである。

ヒンズー教の聖典がヨガ科学を賞賛する理由は、それがだれにでも実行できるからである、ヒンズー教徒以外でも、格別ヨガの技法を知らずに呼吸の神秘を解明した人たちが居る。

それは、神に対する信仰の力が特に卓越した神秘家たちである。彼らはキリスト教や回教やその他の宗教の聖者たちで、実際に無呼吸不動の恍惚状態(サビカルパ・サマディ)にはいっているところを目撃されている。

この状態は、神の直接認識を経験するにはどうしてもまず通らなければならない過程なのである。(さらに高いニルビカルパ・サマディの境地に達すると、聖者は神の中に意識を確立したまま、呼吸したり活動したりすることができるようになる)十七世紀のキリスト教徒の神秘家であったブラザー・ローレンスは、自分が初めて神の直接認識の境地をかいま見たのは一本の木を眺めているときであったと語っている。人はみな木を見ているが、木を見て木の造り主まで見た人はまれであろう。

洋の東西を間わず、いろいろな宗教に見いだされるごく少数の聖者たちは、みな生まれながらに、神いちずのやみがたい信仰心をもっているが、このような強力な信仰心は、普通の人にはほとんど呼び起こしがたいものである。だからといって、そのために、普通の人には神との合一の可能性が全く失われてしまったわけではない。クリヤ・ヨガを実習し、日々の道徳的戒めを守り、心の底から「主よ、私はあなたご自身を知りたいのです!」と訴えることができさえすれば、自己の神性に再び目覚めることができるのである。

ヨガは、普通の人にはむりなほどの強烈な信仰の情熱を要求するかわりに、だれもが日課として実行できる科学的技法を教えるところに、一般人向きな普遍性があるのである。

ジャイナ数の偉大な師たちは、ティルタンカラス(渡し場を作る人)と呼ばれている。その理由は、彼らが迷える人々に、ナムサラ(カルマによる輪廻転生)の荒海を渡る道を数えてくれるからである。サムサラは、入を安易な流れの中に押し流そうとする。だが、「およそこの世の友となろうとする者は、神の敵となる」のである。神の友となるためには、人は、おのれをたえずこの世の幻覚のとりこにしようと働きかける、邪悪なカルマの力に打ち勝たなければならない。

真剣な求道者にとって、このカルマの法則のきびしさは、その束縛からの脱出をうながすむちである。人間をカルマに隷属させている原因が、マーヤに惑わさ装心の盲目的欲望にある以上、ヨギが取り組むべき間題は、心の統御でなけれぽならない。人は、こうして無知の衣をすべて脱ぎ捨てたとき、初めて自分を本来の姿で見ることができるようになるのである。

人間がこの世の生涯の唯一の目的として解かなければならない生死の謎は、呼吸と密接な関係がある。無呼吸の秘密こそ、実は不死不減の奥義なのである。この事実に気付いた古代インドの賢者たちは、呼吸を唯一の手がかりとして、精巧かつ合理的な無呼吸の科学を開発したのである。

このクリヤ・ヨガは、インドがたとえ世界に対してほかに何も寄与するものがなかったとしても、他のすべてを補って余りある貢献であろう。神が呼吸を、肉体と魂とを結び付ける霊妙な鎖としてつくられたことは、ヘブライの預言者たちもよく知っていた。聖書には、これを示唆する言葉があちこちに見られる。

「主なる神は、土のちりで人をつくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生ける魂となった」と創世記は記している。入体は、いわゆる"土のちり"にも含まれている化学元素や金属元素で構成されている。そして凡人の場合、もし息という媒体によって魂から送り込まれる生命エネルギーがなかったならば、その肉体は、活動を続けることはもとより、生き物としての状態を保つこともできないのである。人体に流入して五つの機能を遂行している生命エネルギー(プラーナ)は、遍在する魂の波動"オーム"の一つの現われなのである。

魂という源から生命の光が肉体細胞の中に射し込むと、その光の反映が、土くれの肉体細胞をあたかも生き物のように見せかける。ここに、人間が肉体に執着する唯一の原因がある。単なる土の塊ならば、人はこれほど熱心な敬意は払わないであろう。しかし、呼吸によって魂から肉体に流れ込む生命エネルギーには、人間をして原因と結果を混同させ、肉体そのものに生命があるかのように錯覚させる力があるため、人間は、肉体を自分白身と誤認するに至ったのである。

人間は、普通の意識状態(顕在意識)では、肉体と呼吸を意識しているが、潜在意識が活動している睡眠中は、心は一時的に肉体と呼吸から離れる。さらに超意識状態になると、自己の存在が肉体と呼吸に依存しているという妄想から解放されるのである。神は呼吸せずに生きておられる。神の似すがたにつくられた魂は、超意識の無呼吸状態においてはじめて、自己の実体を意識するようになるのである。

人は、魂と肉体とを結び付けている呼吸という鎖が進化のカルマによって切断されるとき、死という突然の変化が起きて、肉体細胞は本来の無力状態に戻る。普通の人の場合、呼吸の鎖は、こうして強制的なカルマの必然性によって乱暴に切断されるが、クリヤ・ヨギは、科学的英知によって自ら自由にこれを断つことを知っている。自己の実体が肉体ではないことを日々の体験によって知っているヨギは、自分の生命が肉体に依存していないことを死によってあらためて思い知らされる必要はないのである。

人間はみな、幾たびも生まれ変わって、それぞれのべースに従い、自己の神性の実現を目ざして進んでいる。死は、この進化の旅を中断するものではなく、旅のよごれを洗い落として幽界という、より快適な環境に導く門にすぎない。イエスは「あなたがたは心配することはない。わたしの父の家にはたくさんの住まいがある」と言っておられる。

が人間のために測り知れない配慮を払っておられるのは、なにもこの世だけではないのである。われわれの来世は、退屈な墓の中や草葉の陰にあるわけではない。死とは、存在の消減でもなければ、生からの永遠の逃避でもなく、また、直ちに不滅への門出を意味するものでもない。この世にある間、地上的欲望のみを追い求め、魂としての自己を見失った者は、優美な魅力に満ちた幽界ではなおさらそれを取り戻すことはできないであろう。彼はそこで、善と美(この両者は同一のものであるが)に対する、より繊細な感覚と、より敏感な反応を積み重ねてゆくにすぎない。

人間が白己の霊性という不減の黄金を鍛えあげる場所は、この荒っぽい地球というかなとこの上でなければならない。貪欲な死を満足させる唯一の贈り物であるこの得がたい黄金の宝を手に入れないかぎり、人間は、この世への生まれ変わりから解放されることはできないのである。

私は、エンシニタスやロスアンゼルスで数年間、パタンジャリのヨガ・スートラや、そのほか深遠なインド哲学の聖典についての講義を行なった。ある晩、聴講生の一人が質問した。「そもそも神は、なぜ魂と肉体とを結び付けられたのでしょうか。神がこの創造物進化のドラマをつくられた目的は、いったい何でしょうか」。昔から無数の人々がこれと同じ疑問をいだき、哲学者たちは、これに満足な解答を与えようと無益な努力を重ねてきた。

「謎の中のあるものは、永遠なるおかたの中で探究すべきものとして残しておこうではないか」スリ・ユグテスワはほほえみながらこう言われた「人間の限られた推理力をもって、造り主である絶対者のはかり知れない動機をどうして理解することができょう。現象界の因果の法則に拘束されている人間の理性の力は、初めもなく原因もない神の謎の前には、ただぼう然とするほかはないのだ。

だが、この創造の謎も、人間的理性には解くことができなくても、神を求める者には、最後に神ご自身がすべてを明かしてくださるだろう」心から英知を尋ね求める人は、初めから欲張って、アインシュタインの方程式のような精密な生命理論を要求することなく、謙虚な心で、簡単な、神のご計画のいろはを少しずつ習得してゆくことで満足しているのである。

「神を見た者はまだ一人も居ない(時間というマーヤの相対性の支配下にある無常な存在としての人間には、無限なる実在を識ることはできない)。ただ、父のふところにいますひとり子だけが(父なる絶対神の外界への唯一の反映として、オームの波動を通して万物の中に浸透し、調和ある多様性を表現すべくそれらを導ぎ統一している完全な知性---キリスト意識---だけが)神を証言した(神を現した)」のである。

イエスはまたこう説明しておられる「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、白分からは何事もなし得ない。子は父がなさることを同じようにするだけである」と。

ヒンズー教の聖典では、神が現象界に自己を顕現されるときの三重的性質を、創造者ブラフマ、保存者ヴィシュヌ、破壊および更新者シヴァの三神をもって象徴している。この三位一体の神の活動は、波動によってつくられている現象界の万物の中に絶え間なく現われている。絶対者なる神は人間がいだき得る概念の範囲を超えているため、ヒンズー教徒たちは、その三位一体性の象徴としての三神の中に、絶対神を礼拝しているのである。

とはいっても、創造、保存、破壊という、神の普遍的な三つの相は、決して神の究極的性質でもなければ実体でもない。字宙創造は、単に神の演ずる戯れにすぎない。神の実体は、三位一体の秘義のすべてを理解したとしても、なお理解することはできないであろう。なぜならば、原子運動その他あらゆる自然法則に現われている神の外面的属性は、単なる神の表現的側面であって、神ご白身は、あくまでも隠れたままだからである。

神の究極的性質は、"息子が父のもとに昇る"ときにのみ知ることのできるものであり、完全な解脱を果たした魂のみが、波動の領域を超えて波動なき源にはいってそれを識ることができるのである。偉大た預言者たちはみな、究極の秘密を明かすことを求められたとき、黙して答えなかった。ピラトが「真理とは何か」と尋ねたときも、イエスは答えようとされなかった。ピラトのような浅薄な才子たちのこうした質問が、神への熱烈な探究心から出ているとはほとんど考えられない。

このような人たちは、ただ霊的価値に対しては懐疑的であることが見識ある知識人であることを示すものだ、とするあさはかな傲慢さでこう言っているのである。「わたしは真理を証言するために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。だれでも真理にある者は、わたしの声を聞く」。この短い言葉の中に、イエスは、百万言の説明にもまさる意味深いことを説いておられる。神の子は、自らの生涯によって真理を"証言"したのである。白分自身が真理を現わしている以上、もしそれに説明を加えたとしたら、むしろ蛇足というべきであろう。

真理(真実なるもの)とは、理論でもたければ、哲学的思弁体系でもなく、また、単なる知的洞察の産物でもない。それは、実在との完全な一致をいう。人が"真理にある"とは、魂としての自己を片時も見失うことなく自覚していることである。イエスの生涯におけるあらゆる行為と言葉は、自己の存在の源泉が神の中にあることを、彼が常に自覚していたことを物語っている。遍在するキリスト意識と常に完全に一致していたからこそ、彼は「だれでも真理にある者は、わたしの声を聞く」と断言することができたのである。

佛陀もまた、人間のこの地上における短い人生は徳性の完成のために費やすのが最善の生き方である、と割り切った指摘をして、形而上の究極的存在については語ることを拒まれた。また、中国の神秘家老子は、「知る者は語らず、語る者は知らず」といみじくも喝破している。神の究極の神秘は、人間の議論の対象にすることが許されていないのである。神の暗号を解読する力は、人間が人間に伝えうるわざではなく、神ご自身のみが教えうるものなのである。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」。その遍在性を決して誇示することのない主のみ声は、雑念を去った静寂の中においてのみ聞くことができる。創造の波動オームとして宇宙に鳴りひびいている宇宙原音に意識を合わせたヨギは、その音を、直ちに自分の理解できる言葉として聞くことができるのである。

ヴェーダには、神の創造の周的について、人間の理解しうる限度で説明がなされている。人間の魂は絶対者から生まれて最後に再び絶対者の中に合一するまでのそれぞれの生涯を通じて、神の無限の属性の中の一部をおのおの独自の形で表現するように神がおつくりになったのである、と聖賢たちは教えている。すべての人間はこのように、神の個性の一面を賦与されているがゆえに、神にとって等しく貴重な存在なのである。

インドが、世界でも最も古いその歴史を通じてたくわえ、かつ受け継いできた英知は、全人類の遺産である。ヴェーダの真理は、他のすべての真理と同様、神のものであって、ひとりインドだけのものではない。ヴェーダの深遠な哲理を会得しうるほど純化された心をもった聖哲たちが、わざわざこの地球上に下生されたのは、ほかならぬ"地球の人間"として人類全体に奉仕するためであった。真理の領域においては、民族や国の相違など全く問題ではない。そこでは、真理を会得する霊性の程度のみが、人を区別するのである。

神は愛である。それゆえ、神の創造の計画も、ひとえに愛に根ざしているはずである。この単純な思想こそ、いかなる博識の論理にもまして人の心に慰めをもたらすものではないだろうか。実在の核心に深くはいり込んだ聖者たちはみな、「神の宇宙計画は現実に存在し、それは美しくまた喜びに満ちたものである」と証言している。神はそのご計画を、預言者イザヤに次のように啓示された。

かくのごとく、わが口より出ずるコトバ(オーム)もむなしくはわれに返らず
わが喜ぶところの事をなし
わが命じ送りし事を果たす。
汝らは喜び出て行き
とこしえの平和の中に栄えん。
山と岡は汝の前に声を放ちて喜び歌い
野の樹々もみなことほぎの手を打たん。
(イザヤ書55章11-12節)

「汝らは喜び出て行き、とこしえの平和の中に栄えん」苦悩に打ちひしがれた二十世紀の人々にとって、このすばらしい約束は、まさに希望の福音である。そして、そこに示された真理は、見失った聖なる天与の遺産を再び取り戻そうと、不屈の決意をもって努力する求道者ならば、だれでも実現することができるのである。

クリヤ・ヨガの聖なる役割は、東洋に輪いても、西洋においても、今やっと始まったぼかりである。人類のあらゆる不幸を克服する自己実現を果たすための、この聖なる科学的行法の存在を、願わくばすべての人々が知らんことを!
地球上のあちこちに、輝く宝石のように散在する何千というクリヤ・ヨギに愛の念波を送りながら、私は感謝の祈りをささげている「主よ、あなたはこの一介の独身僧に、すばらしい大家族をお恵みくださいました!」


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